パラリンピックという言葉を知ったのは
確か、中学一年の時。
43年前。
体育の先生が教えてくれた。
その後、何かの折に
パラリンピックという言葉を使って話をしても
私の記憶では、
ほとんどの人が知らなかった。
そのうち、パラリンピックは
私の勘違いだったのか?と思ってしまっていた。
この10年、20年、ぐらいですか?
パラリンピックが知られるようになったのは。
隔世の感があります。
それはともかく。
今朝のニュースで、
「子供たちへの観戦、揺らぐ」というものを目にしました。
要は、
パラ観戦を子供に限ってはOKという方針が、
緊急事態宣言下の現在、
各学校判断でやる、やらないが揺らいでいるという話。
ある校長先生が、
「子供のうちに生のパラを見せて、
多様性の社会を感じてほしい、云々」と言っていました。
そこはかとない違和感を感じてしまったのは、
ならば、身近な障害者のボランティアをさせたらいいんじゃない?と。
パラ選手というある意味、特別な障害者の方の頑張りだけを見てしまったら、
頑張れない障害者に対して子供たちはどう思うか?
頑張れない人、できない人、生きることすら大変な人、
そういう障害の人がたくさんいるんだよ。
どんな環境や状況でも頑張る姿は美しいし素晴らしい。
いろんな障害を知り、他を理解することをとてもいい。
でも、教育する上では
まず自分の生活する場での多様性に目を向けて
身近なものとして捉えることが大事なのではないかな。
パラを経験させるのはそれからでよくないか?
いや、どちらが先でもいいのかもだけど、
なーんかね、違和感ありました。
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